空の開拓者 〜札幌飛行場正門跡〜
- 札幌飛行場門柱(撮影:2005/12/04)
北24条西8丁目にのこる この門柱は北海道の空の玄関口として活躍した札幌飛行場*1のなごりです。
札幌飛行場とその周辺を舞台に、
飛行機という新しい科学技術がどのように使われ、広がっていったのか見てみましょう。
■空き地での飛行大会からはじまった空の開拓
世界で初めてのエンジン付き飛行機である、
ライト兄弟の「ライトフライヤー号」がアメリカで飛んでから10年後の1913年、
札幌で「隼号」飛行大会が開かれました。
飛行機は発明されてからすぐに兵器として使われ始めましたが、
それと同時に、飛行機という新しい科学技術を人々に知ってもらうために、
飛行機を見世物とした「飛行大会」が世界各地で開かれていました。
その飛行大会がとうとう札幌にもやって来たのです。
入場料30銭(現在の価格にして約760円*2)のところ、約2000人の人々がつめかけました。
当時の札幌の人口が約19万人ですから、今の札幌で言うと2万人近い人が集まったことになります*3。
残念ながら「隼号」は20mほど飛び上がるとすぐに墜落してしまいましたが、
とにもかくにも、ここから北海道の空の開拓が始まりました。
その場所は、北10条東1丁目の五番舘札幌興農園の牧草地*4でした。
1910年代には月寒練兵場や、北20西5付近の京都合資会社の敷地でも飛行大会が開かれました。
- 北海道の空の開拓が始まった地(1935年の地図)。中心右端に興農園、中心下端に京都合資会社がある。上端には札幌飛行場も見える*5(クリックで拡大)(転載:北大北方資料室所蔵『札幌市街図』(1935)より)
このように、はじめは専用の飛行場はなく、
開けた場所で飛行大会が開かれ、たくさんの人々が集まりました。
しかし当時、飛行機はまだまだ発達途中の技術で、
多くの人に、危険なものだと思われていました。
それに対して、札幌でも飛行大会を行った世界的な曲芸飛行家であり、
また飛行機の開発や改造も行った、アート・スミスは
「飛行機は死と引きかえに乗らなければならないようなものではない。
きちんと作られ、整備された飛行機は安全だ。
しかしそのためには飛行家は操縦能力を高めるだけではなく、
科学技術も理解しなければならない。」
ということ言ったそうです。
■北海タイムス vs. 小樽新聞 熾烈な宣伝飛行合戦
飛行機は手紙などを早く運ぶのにもうってつけの道具です。
また、飛行機がめずらしかった当時は、飛行機を飛ばすだけでよい宣伝になりました。
このような飛行機の力に目をつけたのが新聞社でした。
1926年、北海タイムス社と小樽新聞社*6はきそって飛行機を使いはじめました。
北海タイムスは「北斗一号」と「北斗二号」で
旭川との間に定期便を開設し、手紙や新聞を運びました。
一方の小樽新聞も負けじと「北海一号」と「北海二号」で
小樽への定期便や宣伝飛行を行いました。
- 「北海一号」の原寸大復元機。「北海一号」の興農園から千歳への訪問飛行のために、千歳町民が作った飛行場が後の千歳空港の元となった。新千歳空港ロビーに展示されていた「北海一号」は現在、蘭越の名水ふれあい公園浄水場管理棟に展示されている(撤去・再展示の経緯についてはこちら)。 (撮影:2003/6/23千歳空港ロビー 提供:佐伯邦昭)
興農園"飛行場"を舞台にはげしく争った両社ですが、
小樽新聞の航空部は1年で解散し、北海タイムスの定期便も3回だけで休止してしまいました。
定期便はもうけが出ないので、長く続けることはできなかったのです。
いくら飛行機が便利な道具でも、
すぐに誰もが、安全に、色々な用途に使えるようになったわけではありませんでした。
■札幌飛行場誕生
1927年、長らく待ちのぞまれてきた本格的な飛行場、
札幌飛行場が北海タイムスによって開かれました。
今の北24〜26条、西6〜8丁目にあたります。
さらに1933年、北は30条まで、東西へは西5〜10丁目まで広げられ、
交通・通信などをうけもつ逓信省に引き渡され、国の飛行場となりました。
国内および国外航空路線を拡大する国の方針があったからです。
- 上空から見た札幌飛行場。滑走路に「ロポツサ」の字が見える。おそらく北東から南西にむかって撮影 (撮影:1936年頃? 転載:北大北方資料室所蔵『札幌写真帖』(1936)より)
翌年には旭川へ、1935年には帯広への北海タイムス社機による定期便もはじまりました。
この時期には、民間や大学の飛行クラブがいくつも設立され、
札幌飛行場はグライダーや飛行機でにぎわいました。
そして1937年4月、日本航空輸送社によって、仙台経由の東京との定期航空路が開設されました。
乗客は1機に6名、値段は1人66円(現在の価格にして約11万円)。
本格的な航空機時代の幕開けです。
- 飛行機から撮影された大通り公園周辺。中心左にある大きな建物は南1西2の丸井今井。札幌で最も高い建物の一つだった。(撮影:1932年 転載:北大北方資料室所蔵『国産振興北海道拓殖博覧会小樽海港博覧会栄冠録』より)
11月には、南1西2の丸井今井 札幌本店(現在の一条館)屋上に航空灯台の灯がともりました*7。
この灯りは札幌飛行場への着陸の助けとなっただけではなく、
札幌市民の心の灯火でもありました。
■戦争への道
生活の便利な道具として、誰もが飛行機を使える時代に向かうか
と思われましたが、そうはなりませんでした。
1937年、日中戦争が始まり、日本は戦争の道へと向かっていったのです。
緊迫した国際情勢の中、国内民間航路の整理縮小が行われ、
1940年、東京便は無期運休になってしまいました。
1941年には北海タイムスの施設と航空機は実質的に軍の指揮下に入り、
軍のパイロット養成などを行うことになります。
12月には太平洋戦争が始まります。
飛行機は戦争のため、国のための道具になりましたが、
1944年頃になると燃料不足から飛行機はほとんど飛べなくなってしまいました。
敵の爆撃目標にならないようにと、航空灯台の明かりも消されました。
■札幌飛行場の最後
1945年8月、太平洋戦争終結。
そして10月26日、アメリカ軍は札幌飛行場の全ての飛行機を燃やし、
札幌飛行場の歴史は終わりました。
戦後、明かりを取り戻し、平和の実感を札幌市民に与えた航空灯台でしたが、
1961年にはその役目を終えました。
そして、札幌飛行場の役割は丘珠空港と千歳空港がになうことになりました*8。
現在、飛行場の跡地は住宅地になっており、札幌飛行場をしのばせる物は門柱跡だけです。
- 二本の門柱の脇には記念碑と解説パネルが設置されている (撮影:2005/11/5)
90年以上前は、すぐに墜落してしまった飛行機ですが、今では2〜3万円払えば、
新千歳―羽田間を500人以上を乗せて飛ぶ飛行機に、誰でも乗れる時代です*9
しかしアート・スミスが言った言葉を忘れてしまえば、
飛行機は人類を空につれて行ってくれる道具から、
事故や争いを引き起こす道具になってしまうでしょう。
「成功の秘訣は“知る事”にあり、大胆さにあるのではない。」
(文・写真:川本思心) 最終更新 2006/3/25 ver.1.1
【住所】
- 札幌飛行場正門跡 北区北24条西8丁目1番地
地下鉄北24条駅から宮の森北24条通りを西へ徒歩約10分
門の奥は民家になっているので、見学の際はご迷惑にならないようにしましょう
- 札幌飛行場がデザインされた風景印。北23条郵便局の窓口で葉書に押してもらえます(撮影:2006/1/11)
【参考資料】
- 『日本航空史 明治大正編』 日本航空協会編 1956
- 『日本ヒコーキ物語 北海道編』 平木国夫 1980
- 『札幌事件簿 (さっぽろ文庫 (37))』 さっぽろ文庫37 札幌市教育委員会編 1986
- 『株式会社丸井今井創業百二十年史』 丸井今井百二十年史編纂委員会編 1992
- 『札幌興農園100年の歴史』 須戸和男 1998
- 『札幌歴史地図 明治編・大正編・昭和編』 さっぽろ文庫別冊 札幌市教育委員会編 北海道新聞 1978・1980・1981
- 『札幌全区地番明細連絡図』 1912
- 『国産振興北海道拓殖博覧会小樽海港博覧会栄冠録』 同上刊行会 1932
- 『札幌市街図』 富貴堂 1935
- 『札幌市写真帖』 札幌市役所 1936
- インターネット航空雑誌 ヒコーキ雲 日本航空輸送(株)と大日本航空(株)の輸送機 (web)
- ANA国内線 - 機種・シートマップのご案内 (web)
- 新千歳空港 - Wikipedia (web)
- 航空実用事典 (web)
- 米や麦などのいろいろな情報 (web)
- 国勢調査のページ (web)
【取材協力】
- 佐伯邦昭様・TRON様 (インターネット航空雑誌 ヒコーキ雲)
- 株式会社丸井今井
*1:【札幌飛行場】現在「札幌飛行場」は丘珠空港の正式名称となっているため、北24条の飛行場を「旧札幌飛行場」と呼ぶ場合がある。
*2:【昔と今のお金の価値】お金の価値は時代によって変わる。1913年と2000年の米10kgの価格から現在のいくら位に相当するのか計算した。
*3:【札幌の人口】1914年、現在の札幌市にあたる札幌市・札幌村・篠路村・琴似村・手稲村・藻岩村・豊平村・白石村の人口は194726人。2000年の人口は1822368人。
*4:【五番舘札幌興農園】1893年創業の種苗・大型農機具および洋品雑貨を扱う商店。整地・芝生育成技術の開発普及にも努めており、広大な農地も保有していた。「五番舘」は札幌の老舗デパートとして長く親しまれたが、1997年に西武百貨店に吸収合併され「札幌西武」となった。「札幌興農園」の名はエスタ内の園芸店の店名として現在も残る。
*5:【地図から見る歴史】1935年の地図のため、上端には拡張工事後の札幌飛行場も見える。はじめて飛行機が飛んだ当時は、創成川より東の北10〜25条は興農園の敷地、創成川と斜め通りにはさまれた北20〜23条は全て京都合資会社の敷地、そこより北は市の土地であり、一面トウキビと草が生い茂る土地だった。
*6:【北海タイムスと小樽新聞】戦前の道内の有力新聞社だったが、太平洋戦争中の1942年に各地方に新聞は一社のみという国の政策によってその他道内9紙と統合され、北海道新聞となった。
*7:【丸井今井と航空灯台】丸井今井は1872年札幌創業の老舗デパート。建物は1926年に建築され、1936〜37年に増築された時に航空灯台が設置された。建物自体はその後さらに増改築を続け、現在に至っている
*8:【丘珠と千歳】丘珠(1944年開場。陸軍所轄)と千歳(1937年に海軍の飛行場となる)は進駐軍に接収された後、日本に返還された。札幌飛行場が閉鎖されたのは、周辺の住宅地化が進み、滑走路の拡張等ができなくなってきたことも原因だろう。現在では丘珠空港周辺にも住宅地が増えているため、騒音の大きいジェット機は使用禁止となっている。
*9:【現在の新千歳―羽田便とかつての札幌―東京便】新千歳―羽田便は世界で最も利用者数の多い航路で、この路線で用いられているボーイング747-400の場合、乗客569名を乗せて、巡航速度910km/hで飛ぶことができる。札幌―東京便で'37〜'38年に使われたフォッカースーパーユニバーサルは乗客6名、最高速度190km/h、'38〜'40年に使われたエアスピードエンボイは乗客6名、最高速度280km/h。両機は4年間で1965名を運んだ。