石狩油田 〜いしかり砂丘の風資料館〜
さけ祭りでも知られる札幌近郊の石狩市は、古くから漁業や農業の盛んな街です。風車の建つ231号線を厚田方面に北上すると海岸と平行に開けた街並の石狩弁天町があります。その観光散策路の入り口にいしかり砂丘の風資料館があります。
ここには、古代からのサケ漁の歴史、海から近いいしかりの海岸の地形、地層の特徴を示したいろいろな展示が紹介されています。
- いしかり砂丘の風資料館正面玄関前(撮影:2006/4/15)
■石狩の海の幸
1階は、海、河口、川、浜辺のゾーンの各展示があり、2階は縄文人のサケ漁の様子が再現され、紅葉山49号遺跡の土器や道具などが展示されています。
- 紅葉山49号遺跡の舟のへさき(撮影:2006/4/15)
浜は、サケ漁を中心とする漁業がいまも行われています。かつて信仰の対象とされていたチョウザメが2004年に捕獲され、今も生息していることが、確認されました。
- 昭和44年に捕獲されたチョウザメの剥製(撮影:2006/4/15)
浜辺には、いろいろな国からの漂着物が、手紙のように毎日たどり着きます
- 石狩浜に漂着した物の展示 (撮影:2006/4/15)
■石狩の地下の幸
石狩の恵みは海と川だけではありません。
エゾ石狩帯の地層には、古生代後期から中生代に繁殖したアンモナイトの化石の入ったノジュール*1が含まれています。
- ノジュール化石 (撮影:2006/4/15)
五の沢の奥の八の沢では、今でも地面から原油がにじみ出ているそうです。
- 旧石狩油田八の沢鉱の原油(撮影:2006/4/15)
- 高岡五の沢地区 残念ながら八の沢地区へは、冬期間通行止めです。(撮影:2006/4/16)
石油の起源は、生物の死骸が海底や湖底や湖沼に堆積し、その大部分がケロジェンと呼ばれる物質になり、さらに長い間に地熱と地圧の影響を受け、熟成されたものだと考えられています*2。
- 石油の含まれる地層
原油はそのままでは使えません。
原油は製油所に運ばれ、蒸留装置や分解装置によって、さまざまな石油製品に生まれ変わります。
- 常圧蒸留装置のしくみ
安政5年(1858年)石狩で開拓の幕吏の荒井金助が最初に石油を発見しました。彼が発見した油田が、のちの望来油田となります。
その後、丘陵地帯の五の沢、八の沢油田が開発され、鉄塔を使ったパイプラインで、軽川の製油所まで原油が運ばれるようになりました。
しかし、終戦ま近い昭和20年、燃料生産基地である軽川製油所は、空襲を受け3日間炎上することなります。
- かつて北海道製油所があったJR手稲駅北口付近(旧軽川駅) (撮影:2006/4/16)
しかし昭和31年より茨戸地区平野部において、深度400mで有力な油田ガス層が見つかり、茨戸油田開発が始まります。現在の茨戸川の一部をはさんで南北2.6キロ、東西0.5キロの大油田となり、昭和36年には、生産のピークを迎えます。その後、昭和46年まで、ガス、石油採掘の歴史を刻むこととなります。
- 旧茨戸油田地帯
昔は、染み出た石油が手がかりだった採掘も、現代では人工衛星から地表の様子を調査し、超音波探査、地震探査の結果などとともにコンピューターで地層を分析します。
- 茨戸油田の遺鉱跡(撮影:2006/4/16)
現代では、1本の石油の井戸を掘るのに、陸上で、5〜10億円、海上では、30〜50億円の経費がかかるといわれています。また100本の井戸を掘っても成功するものはそのうちの2〜3本とか。とても大変な事業なのですね。
- かつての茨戸油田でにぎわいを見せた茨戸地区
浜は、魚の漁ばかりでなく缶詰工場も盛んでした。
いしかり砂丘の風資料館では、缶詰の制作を体験することができます。
かつての山や畑の鉄塔ブーム、大漁旗の音や山や海の賑わいをつめて、さあ、私のとっておきの缶詰めができました。
- 石狩浜でかつて盛んだった缶詰めのレプリカ。資料館で作ることができます。(撮影:2006/4/15)
(文・撮影・図:北守敦子) 最終更新 2006/4/21 ver.2.0
【参考文献】
【いしかり砂丘の風資料館】
- 住所 石狩市弁天町30-4
- TEL/FAX 0133-62-3711
- 入場料 大人 200円
- 缶詰制作費 100〜150円