支笏火山が造る石山緑地
北海道を代表するものひとつに広々とした農場と石造りのサイロ、洋館があります。
札幌駅から国道230号線で車で南に向かうこと40分。左手に灰白色の切り立った崖が見えます。ここは、明治から大正、昭和との札幌や小樽の街並を造る建築材料として使われてきた札幌軟石の採掘跡地の石山地区です。
ここは、かつて、「石切山」とよばれ、重い石材を運ぶ馬鉄がにぎやかに往来していました。国道230号線が、石山通と呼ばれているのは、石材を運搬するとおりの由来からです。
- 石山緑地、沈黙の森の「赤い空の箱」 (撮影:2005/11/18)
現在、札幌軟石を切り出しているのは、2社のみです。かつての石切山は、跡地の自然と軟石を使い、広く市民に利用してもらえるようにとストーリーを持った4つのゾーン分かれた石山緑地となリました。それは、昔の人々の心の原風景をイメージした、水の循環を表したエントランス、木を植えた緑のゾーン、乾季や山に対するくぼみのイメージのネガティブゾーン、安らぎのひろばです。
- 午後の丘より「てつなぎ石」 (撮影:2005/11/18)
北海道の彫刻家で構成される造形集団CINQ(サンク)のメンバー*1の手による、宮崎駿を思わせる、今にも動き出しそうな不思議な塔、ジャングルジムやなぞなぞのようなオブジェ、遺跡のような造形などさまざまな表現が周りの風景に溶け込んでいます。
またこれらの彫刻はみるだけでなく子どもたちの、自由な創造性で遊んでもらえることを意識したプレイスカルプチャー*2なのです。
- 「ネガティブマウンド」 (撮影:2005/11/18)
石山緑地では毎年石山緑地芸術祭が行われ、またさまざまな音楽活動や、演劇活動が行われています。かつて薪能がおこなわれたことでも有名です。
札幌軟石とは、支笏湖をつくった4万年前の大噴火の火砕流*3が、その熱と重みで固まってできたもので、一般には溶結凝灰岩*4と呼ばれています。
- 溶結凝灰岩のでき方
これらの粘り気のない火砕流は苫小牧西では70m、千歳では40mの深さで積もり、苫小牧西と千歳は同じ高さになりました。つまり、火砕流発生以前の4万年前の苫小牧方面は、千歳方面より30m低かったのです。
また、山々から集まった川の支流は、苫小牧方面から太平洋側に本流となって流れていたようです。
もし支笏湖のカルデラ火山がなかったら、現在の石狩川によって造られた北の都はもっと違うところにあったかも知れませんね。
- 支笏火山と石山緑地
札幌軟石の分布は、真駒内川、山部川、清田付近で、採石場は、石山のほか、常盤、島松、藤野などにありました。
かつて北海道の開拓時代は、かやぶきの家が多かったため多くの火災が発生し、明治12年開拓史札幌本庁舎(旧道庁)も火災で焼失しました。このことより火災に強い耐火建築、洋風建築への転換が図られ、石材採掘は、盛んになりました。
札幌軟石は加工しやすいことからサイロ、倉庫、銀行、仏像、塀、墓石などさまざまに利用されました。
- 札幌軟石(白く見えるのが、軽石粒) (撮影:2005/11/18)
- 旧石山郵便局(現ポスト館) (撮影:2005/11/18)
- 札幌市資料館正面玄関より(旧札幌控訴院の象徴の法の女神) (撮影:2006/2/7)
札幌軟石は、やわらかく加工しやすいことから彫刻を施されることも多かったのです。円山の八十八箇所のお地蔵さんもこの石からできています。
当時は、地掘りでひとつひとつ楔を打ち込んで切り出していくものでした。
ほかに札幌硬石と呼ばれる石もあります。これは火山岩*5で硬い性質から建築の基礎材、鉄道の枕木に使われました。
明治45年当時の馬鉄には、石切山から札幌駅〜苗穂駅までレールが引かれ、他にも現在の電車通りの基礎となるようなコースも作られていました。
その後コンクリートが建築に使われるようになり軟石事業は、衰退することとなります。
- 当時の石切り場の様子(お宝マップ展より*6) (撮影:2006/1/28)
今では、札幌軟石の建築や新しいスポットに生まれ変わった蔵や倉庫が新しい街並みと調和し、札幌らしい街を形造っています。
(文・撮影・図:北守敦子) Update:2006/3/19 ver.1.1
【住所】
- 札幌市南区石山
【アクセス】
【参考文献】
- 『地形と地質 (さっぽろ文庫)』さっぽろ文庫77 札幌市教育委員会編 北海道新聞社 1996
- 『札幌の街並』さっぽろ文庫2 札幌市教育委員会編 北海道新聞社 1977